時間を有効に活用することに抱いていた僕の誤解

「時間」

 

それを「有効活用しよう!」

 

それを「生産的に活用しよう!」

 

そういう風潮がTwitter上にあったせいか、

 

流行りの本を読み過ぎか、

 

僕は意識していました。

 

でも、

 

「すべての時間を有効に活用する」

 

ということを、

 

僕は誤解していたようです。

 

僕は何か成し遂げたり、学習したりすること、

 

世間あるいはTwitter上ではそれを「労働」や「勉強」と呼ぶ気がすると僕は思っているのですが、

 

その世間あるいはTwitter上で呼ばれている「労働」や「勉強」ばかりをすることが、

 

果たして本当に「時間の有効活用」なのでしょうか?

 

僕は思います、

 

どういうことを思うのかというと、

 

ヒトには精神的・肉体的体力があります。

 

ヒトの持つすべての時間を世間あるいはTwitter上あるいは僕の中でいう「労働」「勉強」だけで埋めるとどうなるでしょう?

 

それを僕は考えました。

 

その結論として、世間・Twitter上でいわれる「労働」「勉強」だけで埋め尽くすとヒトはいずれ壊れてしまうのではないか?

 

と、いうことを。

 

そこで、僕は学生時代ごろまで自分の中で当たり前と思っていた「余暇」という言葉を思い出しました。

 

「余暇」とは「休憩」と言い換えてもいいでしょう

 

要するに「休む」ことです。

 

この休むということに対してインターネット上の様々なところで言われています。

 

その中で僕にとって強く印象的だったものが、「睡眠さえとればすべては解決する」というものです。

 

「睡眠」これはヒトにとってとても重要なものです。

 

僕も「睡眠」は一番、自分の精神的体力・肉体的体力を回復させ、メンタル面や肉体面での健康を保つうえで、重要だと思っています。

 

ただ、もしかしたら「僕だけ」かもしれませんが「睡眠」だけでなく「余暇」「休憩」という時間は必要だとおもいます。

 

ここで話が元に戻ります。

 

「時間を有効に活用する」とは、僕の解釈では「時間の質を高める行動をする」ということではないでしょうか?

 

「余暇」「休憩」という、一見、世間やTwitter上で言われていると思われているような「労働」「勉強」と結びつかないような行動が、

 

「労働」「勉強」の質を高めるためにあるのだと思います。

 

僕は今まで、「余暇」「休憩」つまり「休む」という意味を理解していませんでした。

 

そういう時間を過ごして、自分を責め続けて、それこそ本当に「無駄な時間」を過ごしていました。

 

でも。こうやって気づけたことでこの「無駄な時間」も無駄ではなくなりました。

 

言葉の辞書的定義をそこまでわかっていない僕の文章をここまでお読みいただきありがとうございました。